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萩往還、富士登山に向けての体力作り 坊城~三国ヶ丘 30キロウォーク 〖前編〗

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 3月2日(水)晴れ渡った空の下。「萩往還、富士登山に向けての体力作り 坊城~三国ヶ丘 30キロウォーク」が行われました

 

目指すは、大阪JR三国ヶ丘駅。仁徳天皇陵のお膝元だ。朝9時に坊城事務所を出て、予定では17時半に到着。とは言えかなり厳しいスケジュールなので、実際には18時半くらいになるだろう。毎年3月2日、奈良のお水取り(正式には修二会)が始まるこの時期は、厳しい奈良の冬の寒さが、この時期を境に春に転じるかな~という時期ですが、今年の温かさは、もう春が来ている状態で爽やかな開始となりました。では、JR三国ヶ丘駅目指してスタートです。

申し分のない天候。少し肌寒い中、坊城の事務所を朝9時にスタートしました。まずは西へ西へ。弁之庄から北上、當麻を経由して長尾神社を目指します。しばらくは単に普通の道を進みますので、ここでは今日の目的地である「仁徳天皇陵」について触れようと思います。

 

「仁徳天皇陵」? 「大山(大仙)古墳」?

年長者には「仁徳天皇陵」で知られていますが、若い方には「大仙古墳」とか「大山古墳」が馴染みがあると思います。堺市の百舌鳥古墳群を代表する世界最大の規模の天皇陵で、5世紀前期~中期にかけて築造されたとみられているこの構造物は当時、一気に複数造られ、大陸から都(当時は奈良)を目指してやってきた使節団は、その威容に驚嘆したと思われます。もちろんいくら陵墓とは言え、これほど大きな構造物にしたのは、海外の使節団が難波の津に船で到着した時に効かせるはったりの意味が大きく、事実使節団の日記にはその威容が記録されています。想像してみて下さい。当時は今のように緑の木々はありませんでしたから、赤土に2~3mもある大きな筒形埴輪が壁のように並んでいたので、今で言う超高層ビル街のような景色だったかも知れませんね。

 

さて、とにかく歩くだけなので、あまり変化はありません。そこで今日の目的地の三国ヶ丘の仁徳天皇陵について博士に聞いてみましょう。「博士。仁徳天皇陵って昔は言ってましたが、今は大仙陵とか大山陵って言いますね。どれが本当なんでしょうか」

「仁徳天皇陵」か「大仙(大山)天皇陵」か
うん。この御陵は、年齢によって呼び名が変わってくるんじゃ。地元では昔から「仁徳さん」と呼ばれてきたが、今は「大仙」となっている理由は、その発掘物などからできた年代を測定して日本書紀と比べると、仁徳天皇が亡くなったのが西暦399年。「仁徳天皇陵」の発掘物や築造は5世紀中頃との“仮説”あり、50年以上のズレが生じてしまうので、年代的には允恭(いんぎょう)天皇、もしくは安康天皇の墓ではないかと言う声が一部からあがってきたからといえるんじゃ。

もともと「(仁徳)天皇陵」という呼称は、平安時代の法令集「延喜式(えんぎしき)」や地元の伝承などをもとに、江戸幕府が幕末に指定したのを、宮内庁が原則的に引き継いだもので、宮内庁陵墓課でも「元禄年間に朝廷が仁徳天皇の墓と指定しました。宮内庁もこの見解を支持しています。考古学者の間で諸説出ていることは認識していますが、墓碑銘などの100%確実な”仁徳天皇陵ではない”という証拠が出てこない限りは、指定を変える予定はありません」と答えとる。

じゃが、そもそも日本の天皇陵は数多あるが、その中で確実に埋葬者が判明しておるのは3~4カ所くらいしかない。なぜならそれは歴代の天皇の陵墓であって、「その存在が重要で、墓をあばいて中を見ること」が、重要ではないからじゃ。名前も、その存在も今の私たちは手垢をつけることなく、次の世代に送り届けることが大切なんだと、わしは思っとるがな。

なるほど。つまり、ここは仁徳天皇陵という証拠がないから、ほかの誰かがお眠りになっているんですね。

いや、早とちりはいかんよ。ここが千年にわたって「仁徳天皇陵」だと言われ続けてきたのには、それなりの理由がある。平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されているんじゃ。兆域東西八町。南北八町。というくらいだから、とにかくその敷地の広さは他の陵墓と比較すると群を抜いて広大なんじゃ。そう考えると、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が仁徳天皇陵だと考えるのが順当だと言えるんじゃないかな。それにじゃ。「中陵」と書いとるじゃろ。これは古墳の北と南にも大古墳があるという意味じゃ。北は反正陵、南は履中陵に挟まれたとてつもない大きさの陵と記録されとるのじゃから、ここが仁徳天皇陵であるのは、この記述を見る限り疑いようはない。 
また、1684年の『堺鏡』には豊臣秀吉が中陵で、しばしば猟を行っていて、そこにはここが「仁徳天皇陵」であると記されておる。江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として認識されていて、現在でも近隣市民からは親しみをこめて「仁徳さん」と呼ばれていることからして、逆に発掘物だとか構造が云々というほうが論拠に乏しいとわしは思うがな。

なるほど。新しい意見だからといって、すべて科学的論拠に優れているというわけではなく、伝承や記録のほうが信頼性が高いかも知れないというのですね。最近は”~はなかった”とか、”~は実在の人物ではない”というのをよく聞きますが、あまり真に受けてはいけないのですね。納得です。

 

長尾神社

そんなことを考えて歩いて約100分。長尾神社に到着しました。ここでしばし休憩です。ここから、竹ノ内峠が始まります。神社を出たところには、峠の始まりを示す碑がありました。

葛城市長尾に鎮座する社で、御祭神は、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)白雲別命(しらくもわけのみこと)。「聞いたことないよ~」と思われるかも知れませんが、創建の時期も古くて分からないのですが、平安時代の書物である「三代実録」や「延喜式(えんぎしき)」神名帳にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神社です。

蛇伝説に彩られる長尾神社
長尾神社には蛇伝説があります。大和の大蛇の尾っぽに当たる長尾神社。蛇の頭は大神神社(桜井市)尻尾が長尾神社(葛城市)だと言われています。その中間地点の大和高田市には石園坐多久虫玉神社(いそのにますたくむしたまじんじゃ)があり、蛇の姿が完成します。

水光姫命は別名「井氷鹿(いひか)」と言い「井光」とか「水光姫命」とも表されます。奈良県吉野が存在の伝承地で、文字通り井戸や水の神様です。神武天皇の東征伝でも、吉野川上村あたりでであった神で、尻尾(鉱夫、木こり?)があり、自ら光って(水銀?)いたとされている神です。

その他、1443年の放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)には、飛鳥時代に天武天皇が壬申の乱で勝利したとき、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定められたと記されています。
 長尾神社のこの社地場所は、古代は大阪方面から竹内街道を通って大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の入口となる所であった、重要な場所に社地を構えていました。
それは現在でも同じで、今は少し北に南名阪道が走っていますが、現代に至っても、この長尾の地が竹内街道や長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要衝であることは同じで、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様として、厚く信仰されています。

長尾神社
長尾神社

神社探訪・狛犬見聞録

長尾神社

峠に近づくにつれて、山からの吹き降ろしの為か、冷たい風を感じます。さあ、いよいよ竹ノ内街道の難所と言われた竹ノ内峠に向かいます。

竹ノ内峠を大阪側に越えた道の駅太子町で昼食を。

竹ノ内峠(たけのうちとうげ)は大阪府南河内郡太子町と奈良県葛城市の府県境にある、竹内街道(国道166号)が通る峠です。 
太古から交通の要所であり、聖徳太子もこの峠を越えて四天王寺と飛鳥を往復したとされます。また、遣隋使などの使節もこの峠を越えて飛鳥京を訪れました。
 沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町として栄えました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌碑が建立されており、俳人の憩いの場となっています。

峠を登り切ったところに小さな公園がありました。道の駅太子まではあと少し。ここは奈良県と大阪府との県境昔と今の県境の様子が同時に見てとられます。公園でしばし休息したあと、ここを目指します。ここが本日のランチ場所です。みなそれぞれ準備してきましたが、15分ほどで切り上げて再スタートです。

「近つ飛鳥」という地名

羽曳野地区に入ると、広く見晴らしがよくなってきました。「近つ飛鳥」という文字が頻繁に目に入ります。「飛鳥」と言うと奈良県に「明日香」とか「飛鳥」という地名がありますが、羽曳野にもあるんですね。でもこの「近つ飛鳥」という地名。結構古くて西暦712年に「古事記」に口述筆記された記載があるのだそうです。

多遅比瑞歯別尊と近つ飛鳥

その昔じゃが、履中天皇の同母弟で後の反正天皇になられる、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)は大和の石上神社にお参りに行こうとされた。それで、お住いの難波から歩き始められたのだが、その道中は今はただの道筋なのだが、当時は難波の津と大和飛鳥を結ぶ官道でもあって、また当時周辺には百済系、新羅系、中国系の渡来系氏族が居住しておったから、かなり国際色豊な地域であったので、時間をかけて進まれたのじゃろう。
多遅比瑞歯別尊は途中二泊され、一泊目は今の大阪府羽曳野市飛鳥に、二泊目は奈良県高市郡明日香村飛鳥に宿泊されたのだそうじゃ。当時、その地には決められた地名がなかったので、尊は難波の津に近い飛鳥を「近つ飛鳥」、遠い飛鳥を「遠つ飛鳥」と命名されたんじゃ。

ところで、ではなぜ「飛鳥」かと言えば、これは「アスカ」という言葉は「禊ぎ」という意味があったから、つまり「禊の場所」だからと言われておる。「アスカ、イスク、イスズ」などは皆、「禊」の意じゃ。近つ飛鳥の近くには今も石川(イスクガワ)があり、遠つ飛鳥には飛鳥川(イスクガワ)がある。伊勢神宮の五十鈴川も当然「イスズガワ」でこれは皆、禊をしてから尊い方々をお逢いするということなんじゃ。

なるほど。だから神社にお参りするときは最初に手水舎(てみずや)で手を洗うのは、禊をするということなんでしょうね。現在、この地には「近つ飛鳥博物館」があります

近つ飛鳥博物館
近つ飛鳥博物館

近つ飛鳥博物館

近つ飛鳥博物館

役行者錫杖水の道しるべと地蔵菩薩像

さあ、いよいよロードも20キロ地点の古市に近づいてきました。駒ヶ谷周辺を歩いていると路傍に「役行者」の文字を見つけました。正確には「役行者錫杖(しゃくじょう)の水」錫杖とは杖の先に錫製の輪がついているもので修行僧などが持っているもの。奈良県の歴史には、役行者がよく登場します。役行者が錫杖で掘り当てた水であることを伝える道しるべです。その脇には地蔵菩薩。どちらも地域の方々の厚い信仰心が感じられます。

 

この壺井道を行くと、壺井-通法寺-上ノ太子(叡福寺)を経て金剛山に至ります。堺の鋳物職人で慈善事業に尽くした(道心)の造立によるものです。

20キロ地点、予定より30分ほど遅れて近鉄古市駅に到着。

石川にかかる臥龍橋を渡るとやがて近鉄古市駅に着きました。駅の北側には白鳥神社白長大明神があり、その前の広場でしばし休息です。古市からは古市古墳群が始まりますので、いにしえの時代に思いを馳せることができます。棒になってきた足を摩っているとふと連想が湧いてきました。

「白長神社」の”白くて長いもの”って?そう、長尾神社のところで、白蛇伝説の話がありました。もしかしたらと思ってみると、白長神社は白蛇の神様を祀っているのだとか。今度は感じたのは「白」。「白鳥神社」とは間違いなく日本武尊。昇天して白鳥となったとされています。とかく日本武尊は「白い動物」と関係が深い。白鳥だけでなく、白い猪や白い犬、白い鹿などに導かれた話が残っています。日本武尊を祀っていると言われる奈良県天理市の白堤神社(発音はシロトリ)からのインスピレーションだけでは説明できない「白」物語ですが、ここではサラっと流して、残り13キロ余りのウォーキングを続けます。

日本武尊(倭建命)ヤマトタケル ~日本史の英雄~ - YouTube
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