活動履歴

萩歴史体験「明治維新の原動力」(2019.6/3~6/5)

投稿日:2019年6月3日 更新日:

http://shoin-jinja.jp/
萩で1番熱い日々 受け継がれゆく情熱
松下村塾で吉田松陰が若者を教えたのは、2年にも満たない日々だったと言います。
しかし、吉田松陰と若者たちの過ごした日々は、この萩で1番熱い日々でもありました。
松下村塾という小さな場所で、吉田松陰は若者たちに新たな日本の姿を示しました。
吉田松陰の教えは若者たちに受け継がれ、それこそが日本を、時代を変える原動力となりました。

社内研修 初夏、山口~萩の2泊3日
年号が令和に代わって最初の研修で、私たちは山口県にやって来ました。
平成が令和になったように、江戸から明治に代わった明治維新。その始まりの地・萩でその原動力について学びます。
まず、私たちが訪れたのは、道の駅萩往還にある松陰記念館。維新の偉人のお出迎えを受けました。因みに向かって左から高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の像です。

 

 

 

 

 

 

 

皆、小柄に感じます。久坂玄瑞などは、ボクの子供時代の写真と似ているような。ドラマではカッコいい2枚目が演じている維新の志士も、意外にフレンドリー?な印象でした。

 

 

 

 

 

 

 

因みに道路側には、向かって左から山形有朋、木戸孝允、伊藤博文の像がありました。

吉田松陰の2つの辞世の句

親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん
意味は、子が親を想う以上に、親は子を想う気持ちは深い。今日の自分の死の知らせを、そんな両親は
どのような想いで聞くのであろうか…くらいの意味でしょうか。
これは安政6年、松陰が両親に宛てて書いた「永訣の書」に書かれています。国に対して想いが深かった松陰ですが、家族や、特に両親に対しても、深い愛情があったと感じる句です。

身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
たとえ私の体が、武蔵の野辺(江戸)の地で朽ち果てたとしても、この大地に私の大和魂はしっかりと置いておくものである…くらいの意味でしょうか。
これは一転、松下村塾の塾生に向けて書かれた遺書である 「留魂録」(りゅうこんろく)に遺されている句
です。塾生に対する激しい激励の気持ちが記されています。

山口から萩を目指して 「萩往還」

 

 

 

 

 

歴史の道萩往還http://hagi-okan.yamaguchi-city.jp/より

私たちは明治維新始まりの地、萩へと向かうべく山口市を出発しました。
その際、私たちが歩いた道は萩往還。総距離50㎞以上の道のりの30㎞以上を踏破し、萩の町へと向かいます。
季節は6月ですが、今年は早くから暑い日が続いています。
「寒くなったな」「この分じゃ山は雪じゃろ」…
「暑くなったな」「この分じゃ山は火事じゃろ」…という小話を思い出しました。

 

 

 

 

 

 

 

萩往還(山口市)
萩往還(はぎおうかん)は、江戸時代に整備された街道の一つ。長門国の城下町である萩(現在の山口県萩市)と周防国三田尻(現在の山口県防府市)とをほぼ直線に結ぶ全長約53km(厳密には52.7km[1])の街道であった。

概要[編集]
江戸時代以前から部分的に使われていた道[2]を、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏(長州藩)が萩城に居を移した後の慶長9年(1604年)に、道幅二間(4m)の重要道路として整備した。城下町萩の唐樋にある札場(高札場)を起点に、明木(萩市[3])、佐々並(萩市[3])、山口(山口市)を経由して三田尻に至る。主要街道である西国街道(山陽道)とを結ぶ参勤交代道[4]であると同時に、日本海側の萩と瀬戸内海側の商港であった中関港とを結ぶ役割もあり、石畳・立場・一里塚・往還松などが設けられていた。幕末には志士たちが往来するなどしていたが、明治時代以降は利用者が減って道も荒れ[1]、険しい山道など一部はそのまま廃道となった。
現在[編集]
現在は萩往還のルートの大部分は、国道262号(萩市佐々並と山口市の間は山口県道62号山口旭線)として整備されており、萩市・山口市・防府市を結ぶ重要な幹線道路となっている。萩市明木地区・佐々並地区には当時の萩往還の遺構が一部残されており、昭和52年より復元・整備が始められ[5]、萩市から防府市に至る古道と関連遺跡が平成元年(1989年)に「萩往還」の名称で国の史跡に指定された[6]。また、平成8年(1996年)には文化庁選定の歴史の道百選に、平成16年(2004年)には萩-山口間が美しい日本の歩きたくなるみち500選に選ばれている。平成19年(2007年)9月に日本風景街道に登録されている。
                                 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

歴史薫る、萩往還

萩往還は山口県の日本海側と瀬戸内海側を結ぶ、古くからある街道です。
萩往還は昔から多くの人々が通り、幕末には多くの志士がこの道を通って世界に飛び立っていきました。
今は多くがアスファルトの道になっていますが、石畳の場所もあり、当時を偲ばせる光景が広がっています。

 

 

 

 

 

 

萩往還、踏破

萩往還の周囲には田園風景が広がっている場所も多く、時折吹く風がとても心地よく感じました。
そして、萩往還を出発してから9時間余り…。
ようやくゴール地点に到着。30㎞以上の道のりを踏破しました。
自分の限界に挑戦し、困難を乗り越えた感動が、私たちの胸に自信の炎を燃え上がらせます。

長州藩改め山口県 ~多士済々なる近代日本、始まりの土地~

萩往還を踏破した私たちは、この道を歩いた幕末の人々に想いを馳せました。
山口県の萩の町、この小さな町から日本の近代は始まりました。
そして、その後も近代日本で活躍した多くの人々が、この地から現れました。
私たちはそんな彼らについて知るべく、萩博物館を訪れました。

 

 

 

 

 

 

 

(※萩博物館は内部撮影が禁止なので、建物外観のみを撮影しました※)

吉田松陰 萩が生んだ偉大な思想家

萩博物館の展示内容は豊富でしたが、やはり1番印象的だったのは吉田松陰(下図)に関するものでした。
吉田松陰。萩が生み、近代日本への道を切り開いた偉大なる思想家と言われています。「彼がいなければ、日本の近代はなかった…」と言う人がいますが、それは違うと思います。歴史の流れの中で近代への潮流は、やはり起きたでしょう。松陰が居なくても、いずれは維新は起きたかもしれません。しかし松陰がいなければ、それは5~10年は遅れたでしょう。そうなれば、当時の国際情勢の下、日本の明治以降の歴史もどう変わっていたか、分かりません。

1日も早く、日本を変える。吉田松陰に関する展示からは、そんな彼の熱い「志」が強く伝わってきました。

 

 

 

 

 

 

松下村塾 ~思想家が教育者に変わる時~

次に私たちが訪れたのが、松陰神社です。
松陰神社は文字通り、吉田松陰を祀る神社で、その境内に松下村塾跡があります。
松下村塾。吉田松陰が教育者として、萩の若者たちを教えた場所。
私たちはここで、思想家が教育者に変わった瞬間を知りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

(※松陰神社は内部撮影がなので、建物外観を撮影しました※)

 

 

 

 

 

http://shoin-jinja.jp/

萩で1番熱い日々 受け継がれゆく情熱

松下村塾で吉田松陰が若者を教えたのは、2年にも満たない日々だったと言います。
しかし、吉田松陰と若者たちの過ごした日々は、この萩で1番熱い日々でもありました。
松下村塾という小さな場所で、吉田松陰は若者たちに新たな日本の姿を示しました。
吉田松陰の教えは若者たちに受け継がれ、それこそが日本を、時代を変える原動力となりました。

 

 

 

 

 

 

 

最後に

近代日本、始まりの地・萩。
この地にあったのは、意思が受け継がれる歴史でした。
吉田松陰から若者たちへ。熱く激しい情熱は受け継がれていきました。
人は去っても、受け継ぐ人がいる限りその意思は消えない。
それこそが、私たちが萩で学んだ最大の成果です。

 

 

 

 

 

-活動履歴

TEL:0744-46-9667
月・火・木・金・土 9:30~19:30
※土曜日は活動中で不在の場合がございます。

Copyright© SAKUDO , 2019 All Rights Reserved.