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吉野山歴史体験 〖「経営」で考える南北朝時代〗(2019.4/22

投稿日:2019年4月22日 更新日:

緑輝く、南朝の故地

今回、私たちは歴史体験の一環として、南朝の故地・吉野にやって来ました。
この吉野の地で3人の人物を通して、南朝を『経営』の視点で考えていきましょう。
今回の参加メンバーは、社長の木村と社員2名です。

 

 

 

 

 

 

迅速果断、戦う天皇陛下 ~長所が短所に変わる時~

全てを受け入れる地、吉野。その吉野に南朝を開き、戦い続けたのが後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇を『経営』の視点から見て、まず言えるのが早すぎたという事でしょう。
後醍醐天皇は経営者として、とにかく決断と行動が速い。鎌倉幕府を倒した時の決断と行動の速さは、確かに凄い。
そこまでは良かったのですが、その後の「建武の新政」はその速さが裏目に出ています。
経営者であれば、自分の長所を活かす事は大切です。しかし、長所は時に短所に変わる事もあります。
私たちはその事をよく覚えておかなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

  後醍醐天皇と南北朝時代(Wikipediaより)


後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288年11月26日〈正応元年11月2日〉 – 1339年9月19日〈延元4年8月16日〉)は、日本の第96代天皇および南朝初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉 – 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。諱は尊治(たかはる)。
ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した  (ウィキペディアより)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。1336年から1392年までの57年間を指す[1][2]。ただし、始期の日付から終期の日付までの期間は、56年弱である(後述)。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる[3]。始期はユリウス暦1337年1月23日(延元元年/建武3年12月21日)、 建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った時期であり[1][注釈 1]、終期はユリウス暦1392年11月19日(元中9年/明徳3年閏10月5日)、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一した時期である(明徳の和約)[1]。 始期を、建武の新政の始まりである1333年とする場合もある[2]。  (ウィキペディアより)

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早すぎた改革、建武の新政 ~優秀な部下を活かしきれず~

後醍醐天皇が自分の理想を実現しようと始めた政治が、「建武の新政」でした。
後醍醐天皇は持ち前の「決断の速さ」で、理想を実現しようと政治を進めていきます。
しかし、その政治があまりに早すぎて、人々に理解されませんでした。
後醍醐天皇が抜擢した優秀な部下・楠木正成も、その速さのため十分に活かす事ができませんでした。
会社の『経営』も急ぎ過ぎるとかえって上手くいかないのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

(後醍醐天皇御陵)

寒さと熱さと小雨の里山研修で、竹切り・竹倒し研修+(プラス)焚火。

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後醍醐天皇陵

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。

 

忠臣の悲劇 ~持たざる者、楠木正成~

後醍醐天皇は、「日本」という会社の『経営』に失敗しました。
失敗の理由は色々ありますが、その1つは優秀な部下を活躍させられなかった事があるでしょう。
楠木正成はその代表的な例です。忠誠心もあり、能力もある正成を後醍醐天皇は活かす事ができませんでした。
組織を『経営』していく上で、部下を活かせなかったというのは致命的でしょう。

 

 

 

 

 

(如意輪寺蔵、楠木正成公肖像画)

楠木正成公肖像画をクリックすれば「楠公の歌~櫻井の訣別~」(youtube)をご覧いただけます

 

縁 ~縁に生き、縁に死んだ名将~

吉水神社。この静かな神社で楠木正成は祭神の1柱として、祀られています。
正成は後醍醐天皇の討幕運動に招かれて以来、その中心となって活躍した武将です。
ただ、正成は優秀でしたが、同時代の他の武将たちと違い、商業関係で力をつけた武士でした。
その立場は、現代のベンチャー企業の社長に似ています。正成は裸一貫、実力で成長してきた叩き上げでした。
正成はその活躍が認められ、後醍醐天皇によって中央の役人に取り立てられます。
しかし、急激な出世と叩き上げのキャリアは、周囲に受け入れられません。正成は組織の中で孤立していきます。
結果、正成はその能力を発揮できず、意見も採用されません。
そして、後醍醐天皇を守るため、悲劇的な最期を遂げる事になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(吉水神社)

吉水神社のホームページは、こちらからご覧いただけます。(http://www.yoshimizu-shrine.com/)

父の遺志を受け継いで ~正行立つ~

楠木正成の亡き後、後醍醐天皇は志敗れて吉野で再起を図り、南朝を開きます。
しかし、後醍醐天皇の積極経営も空しく、南朝は劣勢を挽回できません。そんな中で、後醍醐天皇もまた崩御します。
リーダーを失った組織は崩壊の危機を迎えますが、それは南朝も同じです。この時、多くのメンバーが脱落します。
そんな中で、南朝の中心となって支えたのが、楠木正成の遺児・楠木正行でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(如意輪寺蔵、楠木正行絵画)

歴史は繰り返す ~人材を活かせない組織~

楠木正行は父の遺志を継いで、南朝の中心となって組織を立て直していきます。
優秀だった正行は、南朝の天皇・後村上天皇からも信頼され、南朝の新しいリーダーとして活躍していきます。
しかし、その活躍を快く思わない人々の無謀な作戦で、悲劇的な最期を遂げます。
正行亡き後、南朝は衰退して、最終的に滅びます。
組織において、「人材」は大切な資産です。その資産を活用できない組織が滅びるのは、ある意味当然でしょう。

『経営』で大切な事 ~南朝を反面教師に~

今回、私たちは吉野の地で南朝を『経営』の視点から見てきました。
そこから見えてきたのが、組織における「人」の問題です。南朝の失敗の根底は、常に「人」でした。
早すぎる改革が「人」々に理解されず、優秀な「人」材を活かせず、潰してしまう。
『経営』が組織=「人」を相手にする以上、人を無視する事はできません。
結局のところ、『経営』とは「人」なのです。
人を活かせない『経営』は成功しない。それが私たちの今回学んだものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

吉野山観光協会のホームページはhttp://www.yoshinoyama-sakura.jp/からどうぞ

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